中学校指導書 理科編 昭和53年7月 文部省  自然を調べる能力と態度の育成

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 第1章「総説」は、第1節「改訂の趣旨」のあと、第2節「中学校理科の性格」、第3節「中学校理科の目標」、第4節「自然を調べる能力と態度の育成」、第5節「理科における基本的な概念の形成」と続きます。
 これは、例えば次の平成元年版の指導書の第1章「総説」が、「改訂の趣旨」と「改訂の要点」のみになっているの比べ、かなり手厚く書かれています。(ただし、平成元年版では、理科の目標については、第1章「総説」から第2章「目標及び内容」に移動しています。)
 ここでは第2節、第4節についてみていきたいと思います。(第5節の方が先になってしまいましたね。)

中学校理科の性格
 第2節は「中学校理科の性格」というタイトルで、前半は中教審答申であった小中高の一貫性から始まり、中学生の発達段階に応じて内容や方法が考えられなくてはいけないことが述べられています。で、後半部。

 中学校の生徒は,知的探究心が高まり,ある程度抽象的にものごとを考えたり,論理的,合理的に判断しようとする傾向が強くなる時期にあるといわれる。したがって,具体的な目標や内容を設定するに当たって,これらの特質を十分に考慮し,論理的に思考する訓練が適切に行われるように配慮する必要かある。しかし,反面,自然の事象に対する経験がまだ非常に不十分である点にかんがみ,直接経験を基礎としない抽象化や一般化を急いではならない。中学校でも第1学年と第3学年とでは発達段階において相当な開きがあり,その経験内容にも大きな隔たりがある。
 自然を調べる能力及び態度の育成が無理なく行われるようにするためには,内容の選択や構成が国の基準として極めて妥当なものであるとともに,特定の学校・学級,更に生徒一人一人にとって適切なものでなければならない。したがって,国の基準としては,基礎的・基本的な事項を示すにとどめ,具体的な教材の選択や学習方法については創意工夫の余地を多くし,柔軟性のある取り扱いができるようにすることが必要である
 最近の社会は,情報伝達の媒体の急激な発達によって,直接自然の事物・現象に触れる機会が少なくなっており,特に,大都会などにおいては,自然に直接触れるという機会がいよいよ少なくなりつつある。中学校理科において自然環境についての基礎的理解を得させるという意味は,なるべく自然に触れるという経験や,ある意図,ある意識をもって自然にはたらきかけるという経験を多くするという意味であろう。
 また,最近の技術的・経済的発展は,一方では自然破壊,環境汚染を招来し,人類の生存さえも脅かすようになってしる。中学生は個人を中心とした考え方から脱げ出して,ようやく社会全体のことに考え及ぶ時期にさしかかってきている。 自然と人間とのかかわりについて認識を深めることは,必ずしも個々の特定な問題の現象的な把握にとどまらず,人間と自然のかかわりについての科学的理解に基づいて,主体的に判断し,賢明な意志決定ができるようになるための素地をつくることを意味している
 中学校理科は,およそ,以上のような性格をもつものであるから,その性格にふさわしい目標,内容をもつことが要請される。


 中学生は心身ともに変化の大きい時期ですから思考と経験のバランスが取れないことがあるのはその通り。理科でいえば自然に直接触れるという機会どころか、従来の日常生活に触れる機会さえ減っている感じがします、グラニュー糖とか片栗粉といってもピンとこない生徒も少なくないし。そんな感じで、教師が身近な物と思っていたら案外生徒にとって身近な物ではなったりすることも増えてきた昨今、「身近なものを利用して興味を持たせる」ということが少しずつ難しくなってきている、じわじわとした危機感を持っています。
 「国の基準としては,基礎的・基本的な事項を示すにとどめ,具体的な教材の選択や学習方法については創意工夫の余地を多くし,柔軟性のある取り扱いができるようにすることが必要である」というところは、国(文科省)の仕事をさせていただいて、それはひしひしと感じています。現場に向けて、こういうことは大事にしたいね、というメッセージを込める一方で、細かいところまで全国統一するのではなく、現場、とくにそこにいる多種多様な子供たちを前に、彼らにとって少しでも良い条件で学習してもらえるように、具体的なやり方は任せる。その気持ちは非常に強いです。だから私はありがたく、メッセージに乗せられた想いを大切にしつつも、細かい具体的な部分は好き勝手やらせていただいております(笑)。
 が一方で、「質量をはかる器具には、上皿天秤と電子天秤がありますが、どちらを使った方がよいのでしょうか。決めてくれ!」と指導主事さんに詰め寄ってくる現場の先生もいらっしゃるようです。「好きな方使えばいいじゃん、両方あるんだったらテキトーに使い分ければいいじゃん」というのが私の本音ですが、それだと「理科の教育」の原稿どころかブログの記事にさえならないので回答を用意しましたが。
 ちなみに「総合的な学習の時間」が始まった当時も、文科省側は自由度を高くしたけど、逆に現場が何したらいいかわからない。とりあえず思いつく授業の補習や行事の準備はどうも趣旨に反するのでダメらししい。一応、例として情報・国際・環境・福祉がキーワードに挙げられてたけど、全く新しいことなのでピンとこない。ってことで混乱していましたね。当時、電車内の週刊誌のつり広告でも、迷走する総合学習・ゲームの攻略法がテーマに、みたいな記事があったかと思います。
 そして、昭和52年の時点で中理に「主体的に判断し,賢明な意志決定ができる」とまで書かれていたのも結構びっくり仰天です。いわゆる物化生地が融合した第7単元の元祖といえる「自然と人間」のことをさしているのはわかりますが、むしろ3年の2学期ごろまでやっているそれ以外の単元は、平成20年告示の指導要領まで、理科では誰が見ても変わらない科学的客観性を重んじ、価値判断とか意思決定とか、自然の事物・現象を扱うにあたって、主観、すなわち人によって異なる色がつくことは避けていたように思えます。そういうことをやるんだったら社会科あたりでやれよと。
 「自然と人間」で扱うのはせいぜい生命尊重、自然愛護、環境保全あたりが関の山でしょう(それが重要でないといっているわけではありませんよ)。エネルギー問題と原子力発電の例を除けば、ほぼほぼ、落としどころ、どっちの陣営につくべきかは決まっていたような感じがしています。
 ここまで書いてみたものの、令和の時代は、コロナ、311後の原発、遺伝子組み換え、地球環境問題と、当時よりはるかに深刻に「人間と自然のかかわりについての科学的理解に基づいて,主体的に判断し,賢明な意志決定」が迫られている時代だから生ぬるく見えるのでしょうね。当時としては、大きい一歩だったのだと思い直しました。


自然を調べる能力と態度の育成(前半)
 この辺りは前指導要領で大切にしていたところを踏襲している感じがします。また、平成29年度改訂版の新指導要領にもつながっている考え方だと思います。ただ、具体的な場面で示しているのではなく、思いっきり抽象化しているので、言っていることは間違いないんだけれども、それだけに真新しいこともなく、とりあえずお題目というか、理科室の掲示板が寂しいから貼っておいた周期表のような、如何ともしがたいものがあります。

第4節 自然を調べる能力と態度の育成
 現代は,自然科学の進歩と社会情勢の変化の極めて激しい時代である。このような進歩と変革の激しい時代に対処するとともに,社会の進展に寄与するためには,膨大な情報を適切に処理して問題を解決したり,創造的に思考したりする能力や態度を身につけることが大切である。もちろん,このような能力や態度の育成は,教育全体の中で行われるものであるが,理科においては,自然の事物や現象を調べる過程を通して,その育成がねらいとされているのである。
 ここでいう「自然を調べる」ということは,自然の事物・現象の中に問題を発見し,情報を集めて,それらを適切に処理して規則性を発見したり,認識を深めたりすることである。
 ところで,この自然を調べていく過程は,その対象の特質や調べるねらいによって変化するものである。例えば,問題の発見,情報の収集,情報の処理,結論を導びくなどの一連の過程が,様々な順序や重点がかけられて展開される。そして,この自然を調べる方法や順序が確立されるということは,研究を進める上で極めて重要なことである。
 自然を調べる過程の中で用いられる技法や考え方は,理科では,科学の方法ともいわれている。それは,自然を調べる際に,しばしば用いられるもので,観察,実験,測定,記録,データの処理,予想,予測,推論,仮説,モデルの形成,検証などが挙げられる。
 ここで,自然を調べる能力と態度の育成として掲げられているのは,これらの科学の方法を個々別々に習得させるというのではなく,具体的な問題に対処して,その解決ができるようになることが望まれているのである。このためには,自然を調べていく過程で,これらの科学の方法を,必要になった時点で収り上げることが有効であると考えられる。 この場合,生徒は必要感をもって学習するとともに,その学習の中で何回か繰り返されることとなり,その定着が期待できる。
 更に,これらの能力や態度を生きてはたらく力にまで高めるためには,生徒自身に,探究の過程を実際に歩ませることが大切である。 しかし,最初からこのような探究的な学習を事前の指導なしに自由にやらせることが常に有効であるとは限らない。 自然を調べる方法やその過程についての定形を学習させ,その後,流動的な探究の過程をたどらせるように配慮することも重要なことである。



自然を調べる能力と態度の育成(後半)
 後半では、打って変わって前指導要領では注目されなかった「創造性の育成」とか「価値判断」というキーワードが見られます。人間性の回復といったところでしょうか。

 今回の理科の目標の記述の中から,創造的な能力と態度の育成に関する事項が省略されている。これは,創造性が人間の本性にもかかわることなので,教育全体の中で取り上げることとし,理科で特に明記しなかったのであるが,自然を調べる能力と態度の育成の中で創造性の育成が期待されているのである。すなわち,自然を調べていく過程で,実験の方法や装置を工夫したり,自然の多様な事物・現象やそれらについての概念に新しい関連付けをしたり,独創的な解決をしたりすることは,理科の学習においては,極めて重要なことである。そのことが学問上では既知の事柄であったとしても,その生徒にとっては発見であり創造である。このような機会を,学習指導の中にできるだげ多く組み込んでいくことが大切である。
 自然を調べる活動の中で,正しい価値判断を育成することも大切である。すなわち,自然を調べることの意義や,自然の開発や利用が人間の生活や自然そのものにどのような影響を及ぼすかという洞察力や感受性を養う必要がある。そして,その根底には,自然を愛すると同時に,自然を畏敬する心を養う配慮がなくてはならないであろう。
 自然を調べる態度を永続させる根源は,自然に対する限りない好奇心であり,それを理解しようとする心であろう。指導の導入段階ではこの心を誘い,この学習の終わるときにもたらされる充実感によって,この心が一層深まるような配慮が必要である。


 プロの将棋で、新しい戦法は1回しか役に立たない。1回使うとその情報が回り、みんなしてその対策を立ててしまうからだ、みたいな話を聞いたことがありますが、理科において、本来思考する場面、創造性が問われる場面でも同じことが言えます。 
 たとえば、植物が光合成をしていることを確かめたい場面なんかは、丁寧に先生か友達か(植物が光合成なんてしていない!と主張する人とかがいると最高ですが)との対話などを重ねながら、対照実験の必要性を導き出したりできれば、まさにここでいう「発見であり創造」だと思うのですが、現実的にはなかなか難しいところがあります。
 もちろん、必要な条件がそろっていてもその生徒が思いつかない、ということもあるのですが、それ以上に厄介なのが、「すでに答えを知っている(吹き込まれている)」ケース。「このときには植物が入ってない奴と比べるんだよ」と瞬殺されてしまうと、子供にとって発見の喜び、創造性の育成の機会が奪われてしまうわけです。
 とくに、いろいろ試行錯誤して味わってほしいという気持ちで、まだ知られていない思考問題を作問する(面白そうな事象を苦労して探し出してくる)立場としては、最初に答えを教えて、結論までスピーディに結論に達するような解法指導は、営業妨害というかなんというか。いわば推理小説を読んでいる人に「犯人は〇〇だよ」と横で囁くような暴挙です。(そういえば、昔、劇場版の「相棒」が公開された当日に、某巨大掲示板のスレッド名に「犯人は○○!劇場版『相棒』の…」と犯人役の名前がモロ書きされていました。)
 ところがさらに困ったのは、普通だったら推理小説を読んでいるところにその犯人を言われたら怒るでしょうが、読者側も、ストーリーはどうでもよくて犯人を早く正しく見つければ評価される立場で早く犯人を知りたいと望んでいたりするのです。つまり、子ども自身が「発見や創造」よりも「正解となる知識」を効率的に見つけることを重視しているのです。そりゃあ丁寧に考えて時間切れになって結論にたどり着かない人よりも、最初から答えを知っていた人が高い点数がつけられるシステム(受験がそうですよね)のだったらそうなりますよね。巧妙なトリックを考える小説家の身には、つらいものがあります。
 とはいえ、一生懸命考えてもゴールにたどり着かなかった人と、全く考えていない人をどのように見分けるか、もちろんつきっきりで見ていけば可能ですが、クラスに30人以上の生徒がいるとそうもいきません。効果的な(もちろん公平性を前提として)評価方法が提案できないという問題もあり、現状への代案が出せないのも悔しいところです。
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