辞書になった男 ケンボー先生と山田先生

佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」文藝春秋,2014

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三省堂から出版されている二つの国語辞典『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』。その辞書を編纂した見坊豪紀(けんぼうひでとし)と山田忠雄という二人の人物をめぐるノンフィクションなのですが、ぶっちゃけ誰やねんの世界ですね。だいたい国語辞典なんて、あいうえお順に言葉の意味が無味乾燥に書かれているだけで、大きい辞書と小さい辞書では載っている語数はそりゃちがうものの、基本どの辞書も同じようなもんでしょ。

と思っていた私が、結構な分量の本にもかかわらず、一気に引き込まれて最後まで読んでしまいました。まるで往年のシ○ニー・シェル○ンの小説のようです。




『新明解国語辞典』は一番売れている国語辞典です。と同時に、

れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態。(『新明解国語辞典』三版)

というような国語辞典らしかぬ独特な語釈でも知られています。

どうぶつえん【動物園】生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえてきた多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。(『新明解国語辞典』四版)

これなんかは、抗議が殺到し(そりゃそうだ)、第四班の途中で修正されました。

また、用例もちょっと変わっていて、

じてん【時点】「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解国語辞典』四版)

なんてのがあり、赤瀬川原平『新解さんの謎』では、「一月十日にはわかったのか」とツッコまれています。ところがこの一月九日とは二人にとって重要な意味をもっていたことが本書によってわかるのです。

このあたり、『新解さん』の編纂者である山田先生の人格が出ているように思えますが…

「私たちは、辞書を『人格化』して見ていません。国語辞典は『人格』を押し出そうと思って作られているわけではないんです。だから、『新解さん』と呼ばれることには、本当に迷惑しています。」
中略
「『新解さん』と呼ばれる時に語られるのは、国語辞典としての評価ではないでしょう。面白いことが書かれているという評価ですよね?だから、これまで私たちが『新明解』を”新解さん”という名で呼んだことはありません。」(p.45)

テレビのディレクターである著者が、見坊先生。山田先生を題材にした番組を作ろうと、、新明解国語辞典の編集担当者に打ち合わせしたときに言われたセリフ。
いや、これ編集担当者の気持ちがよくわかります。思い入れのある本質にはふれず、そことはかけ離れた表面的なところを一部だけ切り取っておもちゃにする浅はかさ。あまつさえ、そういじってもらえてメジャーになったから喜んでいると思われている相手のデリカシーのなさ。メジャーになってから知った「にわか」達に迷惑する、マイナー時代から応援していたガチ勢なんかと同じ構図ですね。


一方、『三省堂国語辞典』(略して『三国』)のケンボー先生こと見坊豪紀先生は、普通の生活を犠牲にして、145万例という気の遠くなるような量の言葉の用例を集めてカードにした超人。本人はこれを努力ととらえていたかどうかはわかりませんが、ふと、桂枝雀が頭をよぎりました。


で、この見坊・山田の二人は同じ東大の国文学国語学専攻の同期。卒業後、見坊が一年ちょっとという超短期間で国語辞典をほぼ一人で完成させますが、校閲については山田が行いました。山田はこれを「私は見坊の『助手』だったのです」といっています。

その後も山田は見坊の助手的立ち位置が続いたようですが、「明解」「三省堂」2つの国語辞典を改訂しなくてはならないのに、見坊が言葉の用例を集める「ワードハンティング」に没頭し、肝心の語釈などの国語辞典の編集作業が進みません。それに業を煮やしたのが山田と出版社の三省堂。見坊も山田に「明解」の改訂を一時的に任せてしまう。そうしてできあがったのが『新明解国語辞典』であり、真相を知ったら「一月十日にはわかったのか」とお気楽なツッコミなんてとてもできないような一月九日を迎えるのです。(一月九日に何が起こったかは、この本最大のネタバレになるので書きません)

それ以来、二人は会わず、それぞれの辞書を改訂していくわけです。この一月九日を中心とした事実関係というか裏事情というかを関係者のを証言を基に組み立てていくところはミステリー小説の謎解きのような感じです。それはそれでワクワクドキドキな展開ですが、でも私には、それに加えて、辞書の記述の中に直接会わない二人が、相手に伝わるか伝わらないかは別として、秘密のメッセージを送り合っていたようにも思えました。

おんじん【恩人】危機から救ってくれたり物心両面にわたる支援の手を伸べてくれたり発奮の機会を与えてくれたりなどして、その人がその後無事・安穏に暮らしていく上に与って力のあった人。(『新明解』五版)
ば 「山田といえば、このごろあわないな」(『三国』二版)
ブルーフィルム 性行為を写したわいせつな映画。(『三国』四版)

おんじん【恩人】は97年に出た『新明解』第5版で書き替えられた言葉。1992年に見坊が亡くなったのを踏まえて弔辞代わりに山田が見坊に送ったメッセージではなかったか。一方の「ば」は一月九日を経て、会わなくなってしまった、ひょっとしたら寂しさか。はたまた、「あわない」は(性格や気性が)「合わない」の意味だったりして…。
そしてブルーフィルム。これは1992年に刊行された『三国』四版で初めて登場するのですが、この時点ですでにブルーフィルムは過去の物。わざわざ新たに加える必要はないはずの言葉。でも、その昔、見坊・山田ほか2人は喫茶店の個室のようなところで定期的に編集会議をしていましたのですが、会議の後にその店の店長がブルーフィルムを上映するのです。見坊たちは大喜びで鑑賞するのですが、山田だけが見ないで帰ってしまう。「そんなことがあったよね」という見坊から山田へのメッセージでしかないでしょう。著作、それも国語辞典なんかをそういう思いっきり個人的な目的に使用するお茶目さは、決して嫌いではありません。

ついでに「暮しの手帖」の検証はさすがとしか言いようがありません。10冊の辞書で洋裁用語の「まつる」という語を調べ、一覧にして、全社ともほとんど同じ解説だったこと。しかも、その解説が「まつる」はなく「かがる」の解説だったこと。つまり、親亀こけたら皆こけた(もととなる辞書の解説が間違っていたから、他の辞書もみんな間違ってしまった)、もっというと結果的に辞書界に盗用・剽窃が蔓延していることが告発されてしまったわけです。
ま、それって現在でいうと、Wikipediaが間違っていたら、コピペしたサイトやレポート類がもれなく間違ってしまうというあるあるですね。でもそれって、親亀は悪くないとは言わないけど、裏をとらずに乗っかっていた子亀や孫亀や曾孫亀も大概だと思うのですが…。

そして最後に一言 「金田一~!お前なぁ…!」
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