紙に願いを―建白・請願の歴史―

国立公文書館 令和元年度第1回企画展 「紙に願いを―建白・請願の歴史―

「神に願いを」ではなく「紙に願いを」
人々の願いを紙にこめた建白や請願が今回のテーマです。
小学校の国語の教科書に伝記が出ていた田中正造の資料なんかが楽しみです。

1 建白の時代
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民撰議院設立建白書 建00012100

明治7年(1874)1月17日、板垣退助や江藤新平らは左院に民撰議院設立建白書を提出しましたこのとき板垣らは政府内部の対立から参議の職を辞し、愛国公党という政治結社を結成していました。

展示資料の建白書では、民心が落ち着かず、上下が互いに疑いあう現状は「輿論公議ノ壅塞ヨロンコウギノヨウソク」(公の議論が行われず、人びとの考えが通じ合っていないこと)のためであると主張しています。

建白書が提出された翌日、その内容がイギリス人J.R.ブラック主宰の新聞『日新真事誌』に公表され、一般に広く知られることとなりました。子の建白書の提出を契機として、自由民権思想が次第に国民各層の間に浸透していきました。



目安箱の設置 太政類典 太00013100
明治政府が成立して間もない慶応4年(1868、9月に明治へ改元)2月、京都の三条大橋付近に目安箱が設けられました。
 展示資料は「太政類典」から目安箱設置に関する文書。目安箱についての制札(立札)と目安箱の図が描かれれています。
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小学校建設に関する投書  函訴検閲録  建00004100 39/152
 明治2 年(186の、京都では「番組」という自治組織を単位とした64 の小学校が、設立されました。明治5年の学制に先立つ、日本で最初の学区制小学校です。
 展示資料は、 「函訴検閲録」より、上京二十四番組の住民が目安箱に投じた訴えの要約です。この番組は二条城の辰巳(巽、東南)に位置することから、現在は城巽学区と呼ばれています。訴えでは、小学校の建設に際して若者や子どもに蒸飯や酒をふるまっている。この費用は有志の者で負担していて一同に迷惑をかけているわけではないが、このような時期 にぜいたくな振 る舞いをするのはよくないのではないかと、組内をまとめる「年寄」たちの 不心得による失費が多い、と主張しています。
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太陽暦採用の建白  建00024100 (4/6)
明治5年(1872)11月、月の公転周期(29.53 1 日)に基づく太陰暦に変わって、 地球の公転周期(365.242 日)に基づく太陽暦が採用されました。太陽暦は江戸時代に徐々に広まり、幕末には和暦と西暦の照合も必要となり、『万国普通暦』な ども作られました。  展示資料は、明治5 年9 月、名東県(現在の徳島県・兵庫県淡路島の他、香川県を含む地域)士族の宗我彦麿が太陽暦の採用を訴え、集議院に提出した建白書です。宗我は、「英国グリーンウキチ(イギリスのグリニッジ天文台)」で刊行さ れた航海暦を紹介する一方で、日曜日を官庁の休日としなければ、外国人との交際、西洋の技術・学問の導入のため来日したお雇い外国人のいる官庁の業務 にも支障が出る、と主張しています。


歌舞伎役者への課税建白  建00035100
明治5 年、宗教や教化を主管した教部省は、雅楽を始めすべての歌舞音曲を管轄することとしました。他方で、各府県では劇場や寄席から興行税を徴収する ようになります。 展示資料は、明治7 年、大坂府商人の藤田長次郎らが俳優への課税を求め左院に提出した建白書です。藤田らは、芝居から「淫風」(みだらな風潮)を排し、 家族への孝行や真心を尽くす「孝貞忠信」、悪行を戒める「勧善懲悪」といった道 徳的理念によって、子どもや婦人を教え導いていかなければならない、といいま す。その上で、俳優税を徴収すべしと主張しています。 藤田らの建白を受けて、政府は各職業への課税は重要な検討事項であり即決 はできないが、俳優への課税はしばらく各府県に任せる方針を取りました。明治8 年1 月、東京府は俳優など諸芸人への課税を行っています。

ウサギの投機ブームに関する建白  建00018100 6/12
 明治初期の東京では、ウサギの投機ブームが発生していました。
 展示資料は、明治8 年(1875)、東京府の亀山亀吉が元老院に宛てた建白書 です。
 亀山によると、ウサギは愛玩用として、種類によ-)ては300~500円という法外な価格で売買されるといいます。当時の政府高官(参議)の月俸が500 円であったことを考えると相当な高額です。 亀山は、ウサギの飼育を取り締まるよりは奨励すべきであり、「兎十羽」に月ごとの税金を課せばよいとしています。しかし、すでに明治6 年から1 羽あたり1円のウサギ税が導入されていたため、亀山の建白は「採用ナリカタシ」となりました。


2 建白から請願へ 
国会開設請願運動  建00019100 13-14/23
 明治12 年(187の、愛国社第3 回大会で国会開設の請願運動を全国規模 組織することが決定され、明治13 年に国会期成同盟が結成されました。この動き に呼応して各地から国会開設の建白書や請願書が提出されました。建白書は元老院という受付機関があり、提出の規則も備えられていましたが、請願書は太政大臣に宛てて、天皇への取り次ぎを求めるという点で、建白書の制度を超えたも のであり、政府はその受け取りを拒否しました。
展示資料は、国会開設を求める建白書の1 つで、新潟県の民権運動家山際七司らによる元老院宛の建白書です。 山際らは後に太政大臣宛の請願書も 出していますが、これは受取を拒まれました。
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大日本帝国憲法における請願権  帝国憲法義解 単01459100 表紙
明治22 年(188の発布された大日本帝国憲法では、第30 条で国民の請願権 が定められました。 展示資料は、憲法制定に関わった井上毅、伊藤博文、伊東巳代治らが起草・ 校訂し、伊藤の著作として出版された憲法の注釈書『憲法義解』です。同書では、 請願権について、請願の宛先は君主、議院、行政機関が想定され、請願の内容 は公私の別を問わないなど、請願規則よりも広範な権利として説明しています。 また第50 条では、衆議院・貴族院は請願書を受け付けることができると定めら れています。
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鉄道敷設法の公布  類00624100 39/50
政府により近代産業の育成が進められた結果、明治20 年代になると生糸など が大量生産されるようになります。しかし、明治23年(1890)に販路の不足を一因とする恐慌に見舞われたことを契機に、流通経路を整備することの重要性が認識されるようになりました。そうした中、明治25年、鉄道政策の基本方針を定めた鉄道敷設法が公布されました。 展示資料は、同法の公布に関する文書です。第1 条では、政府は国に必要な 鉄道を完成させるために線路の調査及び敷設を行う方針が示され、第2 条では、 今後敷設する予定の路線の筆頭として中央線が挙げられています。


3 足尾銅山と田中正造 
足尾銅山鉱毒 事件を 報じる新聞の切り抜き  足00015100  15/205
 足尾銅山における鉱毒被害は明治20 年代に入り顕在化してきました。特に明 治29 年(1896)の大洪水による被害は甚大で、世間の注目を集めることになりま した。 展示資料は、明治30 年4 月から5 月までの事件に関する新聞記事のスクラッ プです。新聞の報道は、銅山の責任を追及するものから、問題は洪水にあり鉱毒 の被害ではないとするものまで幅がありました。このスクラップは足尾銅山鉱毒事件調査委員会が収集したものと考えられます。
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「押出し」と政府の対応  別00166100 2/10
被害民たちは、足尾銅山の鉱業停止、被害地の復旧、河川改修などを求めて 請願書の提出を盛んに行いました。中でも明治30 年(1897) 3 月に行われた 5000 人の被害民たちが集団で東京に出向き関係機関への請願を行う「押出し」 と呼ばれる行動は、大きな反響を呼びました。 明治32 年9 月、政府は「押出し」を示威運動として取り締まり、大臣や省は一 切面会しないという方針を決定しました。 展示資料は、面会の拒否を各省に通牒した際の文書です。
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川俣事件  纂00534100
明治33 年(190の2 月13 日、4 回目の「押出し」で東京を目指した2500人余 りの被害民と警官が群馬県の川俣(現在の明和町)で衝突し、負傷者や逮捕者 を出した)川俣事件が起こりました。 展示資料は、田中正造が事件発生の翌日の帝国議会に提出した「警吏大勢 兇器ヲ以テ無罪ノ被害民ヲ打撲シタル義ニ付質問書」の質問主意書です。質問 は被害民からの情報に基づいているため不正確な内容も含んでいますが、田中 が運動の主導者として素早い対応をとっていることがうかがわれます。
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帝国議会における田中正造の質問  纂00583100  8-9/12
田中正造が初めて足尾銅山鉱毒事件について帝国議会で取り上げたのは、 明治24 年(1891)12 月のことでした。以来、何度となく帝国議会に質問書を提出 しましたが、政府の答弁から足尾銅山の鉱業停止など根本的な解決策を引き出 すことはできませんでした。 展示資料は、田中の議員辞職前最後の議会となった第15 回帝国議会(明治 33 年12 月25 日~明治34 年3 月24 日)に提出した「足尾銅山鉱毒生命権利 財産ニ関スル質問書」の質問主意書と政府の答弁書です。鉱毒による被害を1 つ1 つ細かく指摘する田中の質問に対し、政府答弁は「天産ノ保護ヲ怠リ田畑収 穫ノ被害ヲ軽視黙過スルカ如キコトナシ」と簡潔に否認しています。
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直訴事件  纂00581100 1/2
議会に失望した田中正造は明治34 年10 月に衆議院議員を辞職しました。そ して明治34 年12 月10 日、第16回帝国議会開院式の帰途にある天皇へ、足尾銅山鉱毒事件の直訴を試みました。議会での活動や通常の請願運動が行き 詰まる中で、世論喚起の意図もありました。 展示資料は、直訴後警察に拘引された田中の処置に関し、大浦兼武警視総 監から柴田家門内閣書記官長に提出した報告書です。田中の行為は「甚タ不都合」だが、「刑法上ノ罪」になるものではないとして釈放したことを伝えています。
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足尾銅山鉱毒事件に関する請願書  足00029100 2,4/251
足尾銅山鉱毒事件に関する請願は帝国議会、内務省、農商務省、大蔵省など の機関に対して広く行われていました。
 展示資料は明治35 年(1902) 7 月に群馬県邑楽郡・山田郡・新田郡の各町村 被害者惣代人から提出された請願書で、足尾銅山の鉱業停止、被害地の地租 免除、被害地の復旧、治水、生活困窮者の救済などを求めています。この請願書は内務省・農商務省宛に提出されたものでしたが、両省が鉱毒調査委員会へ送付し、同委員会が請願に関する書類として請願書の原本を保存していました。
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渡良瀬川の砂  足00010300
 明治29 年(1896) 9 月の渡良瀬川の洪水により農地に甚大な被害が出たこと を受け、農商務省は11 月に農事試験場技師の坂野初次郎を被害地の調査に 派遣しました。展示資料には、「栃木県足利郡毛野村大字川崎字下河原渡良 瀬川右側岸ニ於ケル平流水底ノ土砂明治二十九年十一月廿七日採取印(坂野)」と記載されたラベルが付されており、この調査時に採取されたものと考えられます。
 坂野は明治30 年に設置された足尾銅山鉱毒調査委員会の委員となり、被害地分析試験結果の報告書を提出しました。展示資料はこの報告書の参考資料と して添付され、足尾銅山鉱毒事件関係資料として保管されてきました。
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4 請願の制度化 
請願令の制定  類01267100
政府は請願の規則を制定する必要性を認識していましたが、それが大量の請 願を招くことになるとの懸念もあり、合意形成が難航しました。大正6 年(1917)に 至りようやく請願令が制定されました。 請願令により、要旨、理由、年月日、請願者の族称、職業、住所、年齢を記載 し、署名捺印した請願書を、担当の官公署宛(天皇への場合は内大臣府宛)に 郵送することが定められました。一方で直訴や請願のために面接を強要すること に対しては罰則が設けられ、請願に一定の制限がつけられました。
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ということで「紙に願いを」。建白や請願は庶民にとってお上に願いをかなえてもらう貴重な手段だった一方、ある意味一面的な見方だったり、対応する側から見ると面倒で「意味あんのか?」と思わせるようなものだったり。この辺りは昔も今もなんですね。
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