平成31年春の特別展「江戸時代の天皇」

国立公文書館平成31年春の特別展のテーマは、天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位を記念して「江戸時代の天皇」。
3239-01.jpg 3239-02.jpg

はじめに 
賓永3 年の二条城行幸
 寛永3年(1626) 9月6日、大御所徳川秀忠、将軍徳川家光が上洛し、後水尾天皇が二条城へ行幸しました。この行幸は幕府主導で行われ、元和9年(1623) 頃から構想が練られたものでした。
 この行幸は、幕府と朝廷の円満な関係を示すと共に、新将軍家光が全国の諸大名を従える姿を見せることで、幕府の権勢を誇示するという目的をもった、一大デモンストレーシ ョンでした。
 「御行幸の次第」、「寛永民恩沢」は、このときの行幸行列を描いた資料です。将軍家光の牛車や、後水尾天皇の乗る鳳筆、家光に供奉する諸大名たちが摘かれています。

御行幸の次第 262-0054
 寛永3年(1626)の後水尾天皇の二条城行幸を絵巻物にしたもの。一般的には「寛永行幸記」と称される。
3239-03.jpg 3239-04.jpg
3239-05.jpg

寛永民恩沢 153-0074 乾・表紙 坤・3/27ページ
 寛永3年(1626)の後水尾天皇の二条城行幸を冊子に描いたもの。

本能寺の変で織田信長が亡くなった後、明智光秀を破った羽柴秀吉の勢力が台頭していきます。それに伴って秀吉の官位も上昇していきました. その頃,朝廷では関白職を巡る争論が起きていましたが、秀吉による調停の結果、天正13年(1585) 7月11日秀吉が関白に航任しました。五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)出身者以外が関白に就任するのは初めてのことで. これを聞いた英俊は「前代未聞のことである」と記したのがこの 多門院日記略 163-0084 (37/96)です。

 徳川家康と後陽成天皇は、幕府の朝廷への介入を巡って激しく対立 しました。この対立と軌蝶は、次の将軍秀忠と後水尾天皇の代に なっても続きます。後水尾天皇は幕府への抗議を示すため、実に5回 にわたって譲位の意向を示しますが、幕府は時期尚早だと返していき、最終的には幕府の許可を得ないまま、 娘の興子内親王(明正天皇)へ譲位してしまいます。これを重く見た幕府は摂家を朝廷統制の要に据えるほか、家光は、寛永3年(1626)に引き続き、同11年にも大規模 な軍勢を率いて上洛し、将軍の権威を示す一方、後水尾上皇へ所領 を進上し、京都の町衆へ銀子を下賜するなど、後水尾上皇・朝廷との 融和を図りました。


五代将軍綱吉と霊元天皇の代になると、朝幕関係に変化が見られ ます。霊元天皇は、当初、「朝廷再興」を掲げ、自ら朝廷運営を行う 意向を示しますが、幕府や摂家衆の反対により頓挫します。しかし 「朝廷再興」は、朝廷儀式の再興という形で実現していきます。一方 幕府も、力による統制から朝廷権威を幕府へ協調させる施策へと 転換し、この路線は六代家宣・七代家継時代の施策へと引き継がれていきました。

御即位庭上之図 145-0781
1687年(貞享4年)4月28日に行われた東山天皇即位式の様子を描いた木版刷りの絵図。
3239-06.jpg 3239-07.jpg

押小路文書(大嘗宮図) 古011-0284(30)
貞享4年(1687)東山天皇大嘗祭の大嘗宮図。
3239-08.jpg 3239-09.jpg

大嘗会祭図 145-0979
3239-10.jpg


元文3年(1738) 11 月、桜町天皇の大嘗祭が行われました。幕府はこの時の大嘗会を含む各諸儀式を、田安宗武に 仕えた国学者の荷田在満カダノアリマロに調査するよう命じます。その時 作成されたものが「大嘗会儀式具釈」で、それを簡略化し て刊行したものが「大嘗会便蒙 145-0872(12/51)」です。刊行したことが幕 府の目に留まり、在満は幕府により処罰されました。

礼儀類典 259-0002
徳川光囲が朝儀の実用に役立てることを目的として編纂したもの。朝廷の恒例また臨時の儀式・公事などに関する記事を、各記
録類から抽出し分類した有職故実ユウソクコジツ書。書名は霊元上皇が命名。
高御座(20/53) 高 形(13/50)


寛政2年(179のに完成した新御所に関しては、多くの造営記録集や解説書などが作成されました。
鳳闕見聞図説 特090-0007」 もそのーつです。14/75ページは「紫哀殿之図」。御殿の平面図・調度品だけでなく、古記録にみる御殿の概要なども記されています。

寛政内裡遷幸之図 145-1413
寛政2年(1790)11月22日、聖護院の仮御所から新御所への光格天皇の遷幸が行われました。光格天皇が載った鳳輦は午前10時頃に聖護院を出発し、午後2時ごろに新御所へ到着しました。遷幸の行列には公家だけでなく、京都所司代など武家も警護のために加わっていました。また資料には描かれていませんが、多数の見物人もいたようです。
3239-11.jpg 3239-12.jpg

光格天皇修学院御幸図 特088-0001
文政7年(1824)9月21日、光格上皇が修学院へ御幸・還御した時の行列を描いた絵巻です。全三巻構成で、巻一は仙洞御所の出立の儀から始まる、長大な路次行列です。巻二は路次行列から、修 学院下茶屋での着到の儀の様子が描かれます。巻三 は還御の行列図で、路次行列のみが描かれています。
光格上皇は、午前六時頃に仙洞御所を出発し、 清和院御門を出て、若狭街道へ入り、北へ向か います。そして赤山道を東へ向かい、午前十時頃に修学院へ到着します。還御は、修学院を午後十時過ぎに出発し、仙洞御所へ着いたのは午前四時頃だったと言われています。ただし、何 か支障があったのか、公的には到着は午前二時頃とされたようです。
ふだんは原本閲覧不可なので、今回は貴重な機会です。
3239-13.jpg 3239-14.jpg
3239-15.jpg 3239-16.jpg




桜町殿行幸図 特087-0001
文化14年(1817)3月22日、光格天皇が禁裏御所を出て、仙洞御所へ行幸した行列を描いた絵巻です。当時、 仙洞御所を「桜町殿」と称していたため、この名があります。 二巻構成で、全長およそ四十五メートルに及ぶ長大な絵巻です。上巻には行列を見物する多数の民衆や供奉する公家衆が、 下巻には天皇の乗物である鳳輦ホウレンや、紫宸殿シシンデンなどが描かれてい ます。
ふだんは原本閲覧不可なので、今回は貴重な機会です。


そして特別展示
 平成(元号)の書 寄贈02111100
 昭和64年(1989)1月7日、小渕恵三官房長官(当時)が新元号を国民に発表したときに掲げた「平成」の書。原本
3239-17.jpg

「平成」は2つの漢籍『史記』279-0018(45/60) と『書経』が典拠とされています。『史記』の「五帝本紀」の一説「内平外成」(内平らかに外成る、国の内外にも平和が達成される、の意)に基づいています。
3239-18.jpg


「令和」の典拠は『万葉集』特117-0008(15/90)巻五「梅花歌三十二首」の序の一節である「初春令月、気淑風和(初春の令月、気淑く風和ぎ)」 (初春の佳い月に気は良く風は穏やかの意)に基づいています. 
3239-19.jpg 3239-20.jpg

ちょうど改元のタイミングでの特別展でしたが、また歴史の勉強をしてしまった…という感じです。特に朝廷と幕府の対立などは、武力で制圧するわけにもいかず、かといって自由にさせるわけにもいかず、硬軟交えて制御するという微妙なバランスの下に成り立っているんですね。だからこそ、どちらかが互いにブレーキとなって暴走することがなかったのかもしれません。

ところで、国立公文書館は、国会前庭の憲政記念館のあたりに引っ越す計画があります。そうすると、行きづらくなるなぁと。気象庁も虎ノ門に移るし、竹橋に行く用事が減るな…。



おまけ 
東京メトロの丸の内線ホーム、令和元年五月一日
関連記事

コメント

Secret

月別・カテゴリー別はこちら

ご来場者数
スポンサードリンク
リンク
キーワードでお探しします
お手紙、待ってます(はぁと)!

名前:
メール:
件名:
本文:



この人とブロともになる

QRコード
人気ブログランキングへ
RSSリンクの表示