企画展 戊辰戦争 ―菊と葵の500日―
国立公文書館、こんどの企画展は 戊辰戦争 ―菊と葵の500日―
展示物を抜粋してみました。


戊辰所用錦旗及軍旗真図【重要文化財】 附A00294100
戊辰戦争の際、新政府軍が用いた錦旗及び軍旗の精密な模写図です。本図の原寸サイズは、長さ729.5×紙高3 8.2cm。
作成者の浮田可成は、山口藩生まれ、明治4年から宮内省、 太政官正院、内務省等を経て内閣記録局に勤め、級密な絵図類を多数残しました。
戊辰戦争では、各種の錦旗や軍旗が新政府軍側に与えられ、 用いられました。これらの旗類は陸軍省の遊就館や宮内省図書寮などに保存されていましたが、布地は年が経過すれば 劣化は免れないため、内閣では絵師浮田可成に命じ、これら の旗を克明に描写させ、正確な姿を後世に伝えることとしました。

白河口の戦い
東山新聞 165-0137 新政府の東山道軍(総督岩倉具定、参謀板垣退助)の戦闘記録。全3冊。
閏4月から7 月、東北地方南部の要地である小峰城(白河城)をめぐり、奥羽越列藩同盟側(同盟に名義上加わらなかっ た会津藩や、旧幕府歩兵隊を含む)と新政府軍との間で白河口(現在の福島県白河市)の戦いが起こりました。展示箇所では、 白河城の彩色図を掲載し、6 月末現在の形勢を報告しています。

会津戦争
東山新聞 165-0137 新政府の東山道軍(総督岩倉具定、参謀板垣退助)の戦闘記録。全3冊。
新政府軍は7 月29 日、奥羽越列藩同盟側の二本松城を攻略し、8 月半ばには若松(現在の福島県会津若松市)へ進軍する態勢を整えました。8 月22 日、新政府軍は猪苗代城を陥落させ、翌日未明より若松城(鶴ケ城)下に進入、9 月初めに若松城を包囲しました。主力を越後方面に派遣していた会津藩は、 奥羽越列藩同盟が、参加する諸藩の降伏によって解体するなか、孤立状態のまま、龍城戦に入りました。展示箇所は、若松城の彩色略図です。

白虎隊之図 158-0073
明治22年(1889)に描かれた、白虎隊自刃の石版画(展示資料は明治25年に再版されたもの) 。作者の岡村政子は明治から大正にかけての石版画家で、夫の竹四郎とともに東京で石 版印刷業の信陽堂(後の東洋印刷)を営んだ。また、洋風美人の石版刷りが東京土産として大評判になった他、多くの人物石版画を制作した。全1鋪。
自虎隊は慶応4 年(1868)3 月、洋式兵制を採用した藩が、 年齢別に編制した四つの隊(白虎隊:16~17 歳、朱雀隊:18~35歳、青龍隊:36~49歳、玄武隊:50~56歳)のーつです。戊辰戦争で白虎隊は湖南(現在の福島県郡山市)、中津川(現在 の福島県耶麻郡北塩原村)方面に出陣後は各地を転戦し、多 くの戦死者を出しました。
特に白虎士中二番隊は8月、藩主松平容保に従い、戸ノ口原(現在の福島県会津若松市)の戦闘の後、残された20名は 若松城に向かいますが、飯盤山に至り、黒煙が上る若松城を 見て落城したと誤認、全員が自刃しました。このうち、飯沼貞吉だけは一命をとりとめています。展示資料の上部にみえる 「忠臣義士」という揮竜は、容保によるものです。



銃創墳言 195-0316(34/36ページ)
ドイツのセリウス、モストの著書を、西洋医学所頭取の大槻俊 斎が摘出・抄訳した、西洋医学に基づく、日本で初めての軍陣外科書(戦時に受けた傷に関する医学書)。全1 冊。
戊辰戦争では、当時の日本にもたらされた西洋軍事や医療 に関する知識が旧幕府軍、新政府軍の両方で活用されました。 鉄砲による負傷の治療方法などを解説した『銃創墳言』では、 「銃創」(鉄砲による負傷)を火薬の勢いで発射した弾丸などを 体に受けてできるものであり、その他の傷とは全く異なるものと しています。 また、巻末には銃創の治療に必要な器具の図も掲載しており、 本文と図が対照可能になっています。

諸藩肩袖合印簿 165-0122(49/176)
明治2年(1869)、新政府が戊辰戦争に参加した新政府軍側の各藩が用いた合印や陣羽繊の調査を行い、図として記録した資料。全1冊。

函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺 重要文化財 公00767100
「公文録」に含まれる函館五稜郭の図です。 「公文録」は,内閣の前身である太政官において授受した明治元(1868)年から同18年までの公文書のほとんどを、各省庁別、年月別に編集したもの。
明治2 年(1869)5 月、五稜郭は旧幕府軍の降伏によって明治政府の兵部省へ明け渡されました。同年には箱館府に代わって、開拓使が設置されます。また、「蝦夷地」は「北海道」に改称し、「箱館」は「函館」Iと表記するようになりました。
明治4 年には、開拓使本庁の札幌移転に伴い、五稜郭内の旧箱館奉行所が解体されました。さらに、明治6年12 月に五稜郭跡地の管理は開拓使から陸軍省に移り、練兵場として使用されました。展示資料はこのときの文書で、同年11月、陸軍省が兵営・火薬庫等の建設のため、開拓使に函館五稜郭の引渡しを求めたものです。資料には彩色された絵図が添付されており、建物や堀の寸法が詳細に書き込まれています。
函館五稜郭は大正3 年(1914)からは公園として開放され、 昭和27年(1952)には特別史跡に指定されました。

復古記
明治政府は、「日本書紀」にはじまる古代国家の正史編纂事業を復活させることを計画しました。その一環として、明治5年(1872)、戊辰戦争の記録を中心とした「 復古記」 編纂の命が、太政官正院歴史課(後に修史局、修史館、内閣臨時修史局と変遷)に下りました。
また、政府は、明治6年の火災で焼失した政府の記録に代 えて、旧大名家に記録の提出を命じました。明治21年,修史事業は内閣から東京帝国大学に移管され、翌22)年、「復古記」全289巻が完成しました。本展でご紹介した公文書を除く資料の多くは、この「復古記」編纂事業で収集・筆写されたものです。
「復古記」 は正記(編年の部)と外記(戦記の部)からな り、展示資料は正記の浄写本です(副本。原本は東京大学史料編纂所蔵)。なお、太政官正院記録課およびその後継部局では、公文書を部門別に編纂した「太政類典」(当館所蔵)の一部として、「復古始末」「東北征討始未」という戊辰戦争の記録が編纂されています。内容は、ほぼ「復古記」と同じものです。

展示物を抜粋してみました。



戊辰所用錦旗及軍旗真図【重要文化財】 附A00294100
戊辰戦争の際、新政府軍が用いた錦旗及び軍旗の精密な模写図です。本図の原寸サイズは、長さ729.5×紙高3 8.2cm。
作成者の浮田可成は、山口藩生まれ、明治4年から宮内省、 太政官正院、内務省等を経て内閣記録局に勤め、級密な絵図類を多数残しました。
戊辰戦争では、各種の錦旗や軍旗が新政府軍側に与えられ、 用いられました。これらの旗類は陸軍省の遊就館や宮内省図書寮などに保存されていましたが、布地は年が経過すれば 劣化は免れないため、内閣では絵師浮田可成に命じ、これら の旗を克明に描写させ、正確な姿を後世に伝えることとしました。

白河口の戦い
東山新聞 165-0137 新政府の東山道軍(総督岩倉具定、参謀板垣退助)の戦闘記録。全3冊。
閏4月から7 月、東北地方南部の要地である小峰城(白河城)をめぐり、奥羽越列藩同盟側(同盟に名義上加わらなかっ た会津藩や、旧幕府歩兵隊を含む)と新政府軍との間で白河口(現在の福島県白河市)の戦いが起こりました。展示箇所では、 白河城の彩色図を掲載し、6 月末現在の形勢を報告しています。

会津戦争
東山新聞 165-0137 新政府の東山道軍(総督岩倉具定、参謀板垣退助)の戦闘記録。全3冊。
新政府軍は7 月29 日、奥羽越列藩同盟側の二本松城を攻略し、8 月半ばには若松(現在の福島県会津若松市)へ進軍する態勢を整えました。8 月22 日、新政府軍は猪苗代城を陥落させ、翌日未明より若松城(鶴ケ城)下に進入、9 月初めに若松城を包囲しました。主力を越後方面に派遣していた会津藩は、 奥羽越列藩同盟が、参加する諸藩の降伏によって解体するなか、孤立状態のまま、龍城戦に入りました。展示箇所は、若松城の彩色略図です。

白虎隊之図 158-0073
明治22年(1889)に描かれた、白虎隊自刃の石版画(展示資料は明治25年に再版されたもの) 。作者の岡村政子は明治から大正にかけての石版画家で、夫の竹四郎とともに東京で石 版印刷業の信陽堂(後の東洋印刷)を営んだ。また、洋風美人の石版刷りが東京土産として大評判になった他、多くの人物石版画を制作した。全1鋪。
自虎隊は慶応4 年(1868)3 月、洋式兵制を採用した藩が、 年齢別に編制した四つの隊(白虎隊:16~17 歳、朱雀隊:18~35歳、青龍隊:36~49歳、玄武隊:50~56歳)のーつです。戊辰戦争で白虎隊は湖南(現在の福島県郡山市)、中津川(現在 の福島県耶麻郡北塩原村)方面に出陣後は各地を転戦し、多 くの戦死者を出しました。
特に白虎士中二番隊は8月、藩主松平容保に従い、戸ノ口原(現在の福島県会津若松市)の戦闘の後、残された20名は 若松城に向かいますが、飯盤山に至り、黒煙が上る若松城を 見て落城したと誤認、全員が自刃しました。このうち、飯沼貞吉だけは一命をとりとめています。展示資料の上部にみえる 「忠臣義士」という揮竜は、容保によるものです。



銃創墳言 195-0316(34/36ページ)
ドイツのセリウス、モストの著書を、西洋医学所頭取の大槻俊 斎が摘出・抄訳した、西洋医学に基づく、日本で初めての軍陣外科書(戦時に受けた傷に関する医学書)。全1 冊。
戊辰戦争では、当時の日本にもたらされた西洋軍事や医療 に関する知識が旧幕府軍、新政府軍の両方で活用されました。 鉄砲による負傷の治療方法などを解説した『銃創墳言』では、 「銃創」(鉄砲による負傷)を火薬の勢いで発射した弾丸などを 体に受けてできるものであり、その他の傷とは全く異なるものと しています。 また、巻末には銃創の治療に必要な器具の図も掲載しており、 本文と図が対照可能になっています。

諸藩肩袖合印簿 165-0122(49/176)
明治2年(1869)、新政府が戊辰戦争に参加した新政府軍側の各藩が用いた合印や陣羽繊の調査を行い、図として記録した資料。全1冊。

函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺 重要文化財 公00767100
「公文録」に含まれる函館五稜郭の図です。 「公文録」は,内閣の前身である太政官において授受した明治元(1868)年から同18年までの公文書のほとんどを、各省庁別、年月別に編集したもの。
明治2 年(1869)5 月、五稜郭は旧幕府軍の降伏によって明治政府の兵部省へ明け渡されました。同年には箱館府に代わって、開拓使が設置されます。また、「蝦夷地」は「北海道」に改称し、「箱館」は「函館」Iと表記するようになりました。
明治4 年には、開拓使本庁の札幌移転に伴い、五稜郭内の旧箱館奉行所が解体されました。さらに、明治6年12 月に五稜郭跡地の管理は開拓使から陸軍省に移り、練兵場として使用されました。展示資料はこのときの文書で、同年11月、陸軍省が兵営・火薬庫等の建設のため、開拓使に函館五稜郭の引渡しを求めたものです。資料には彩色された絵図が添付されており、建物や堀の寸法が詳細に書き込まれています。
函館五稜郭は大正3 年(1914)からは公園として開放され、 昭和27年(1952)には特別史跡に指定されました。

復古記
明治政府は、「日本書紀」にはじまる古代国家の正史編纂事業を復活させることを計画しました。その一環として、明治5年(1872)、戊辰戦争の記録を中心とした「 復古記」 編纂の命が、太政官正院歴史課(後に修史局、修史館、内閣臨時修史局と変遷)に下りました。
また、政府は、明治6年の火災で焼失した政府の記録に代 えて、旧大名家に記録の提出を命じました。明治21年,修史事業は内閣から東京帝国大学に移管され、翌22)年、「復古記」全289巻が完成しました。本展でご紹介した公文書を除く資料の多くは、この「復古記」編纂事業で収集・筆写されたものです。
「復古記」 は正記(編年の部)と外記(戦記の部)からな り、展示資料は正記の浄写本です(副本。原本は東京大学史料編纂所蔵)。なお、太政官正院記録課およびその後継部局では、公文書を部門別に編纂した「太政類典」(当館所蔵)の一部として、「復古始末」「東北征討始未」という戊辰戦争の記録が編纂されています。内容は、ほぼ「復古記」と同じものです。

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